「私のカラオケの十八番(おはこ)は…」なんてよく聞きますね。
自分が得意なことを十八番(おはこ)と言い、歌舞伎用語がもとになっているのを知っている人は多いと思います。
しかし、それがどんな演目なのかまで知っている人ってほとんどいないんじゃないでしょうか?
歌舞伎十八番にはどんな演目があるのか、ちょっとでも知っていると、普段見る世界が変わりますよ!
今回は、歌舞伎十八番の演目について、簡単に解説しようと思います。
歌舞伎十八番とは
7代目市川團十郎によって天保3年(1832年)に定められました。
初代・2代目・4代目の市川團十郎が初演し、得意とした演目18作品をまとめたものです。(歌舞妓狂言組十八番)
ちなみに3代目の市川團十郎が入っていない理由は、早逝してしまったためです。
若干20歳で3代目市川團十郎を襲名し、将来を嘱望されていましたが、22歳で病死してしまいまったそうです。
その18演目の台本を「桐の箱」にしまったことから「十八番(おはこ)」と呼ばれています。
ただ、中には上演されてから50年以上もたっていて、内容がはっきりしないものもあったそうです。
しかしそのような作品も、明治以降に大幅な創作がされ、復活上演されています。
なぜ「十八番」という数なのか?
当時「三、五、七、九、十二、十五、十八」が縁起が良い数字とされていました。
その一番上の数が「十八」だったからという説があります。
また、仏教の「十八界」から来ているという説もあります。
仏教では存在の領域を18に分類した言葉があり、「必要なものすべて」という意味から来ているともいわれています。
というわけで正確には分かっていません。
初代、二代目、四代目の市川團十郎が得意としてきた演目が十七個あり、七代目が自ら始めた「勧進帳」を合わせて「歌舞伎十八番」となりましたが、
七代目がどうして「十八番」にしたのかは、本人に聞いてみないと分かりません。
「おはこ」という言葉は「歌舞伎十八番」が起源ではない?
諸説ありますが、「おはこ」は歌舞伎十八番が起源ではないという話もあります。
演劇評論家の赤坂治績氏が「團十郎とは何者か」という著書のなかで、「おはこ」という言葉は、歌舞伎十八番が制定された天保3年(1832年)以前から使われていたと述べています。
もともとは、木の箱に貼られた美術品などの鑑定書のことを証明した「箱書付」のことだそうで、「正しいと認定された」という意味で使われていたそうです。
歌舞伎十八番の人気が高まるにつれて、人々も十八番のことを「おはこ」と呼ぶようになり、得意なことを指す言葉として定着していったのではないかとも言われています。
歌舞伎十八番の演目一覧
初代市川團十郎以来、成田屋に伝わってきた歌舞伎十八番の演目は、以下のものとなっています。
代々の市川團十郎は、荒事を得意としており、成田屋の家芸は荒事とされています。
「得意なこと」を表す言葉で、「十八番(おはこ)」の他にも「お家芸」なんて言葉も使われますが、それも歌舞伎が由来となっています。
他にも歌舞伎が由来となった言葉はたくさんあるので、よかったらこちらの記事も読んでみてください。
そんなわけで、歌舞伎十八番のほとんどの演目は「荒事」です。
当時でも江戸歌舞伎を代表する家系であった市川團十郎家(成田屋)ですが、七代目市川團十郎は成田屋の権威をさらに高めようとしていました。
そこで、成田屋が代々受け継いできた荒事「家の芸」を世間に広く知らしめ、今後もはっきりとわかる形で代々受け継がせていきたいという狙いもあったそうです。
歌舞伎十八番の人気演目は?
18個も演目がありますが、すべて有名なわけではありません。
十八番の中でも人気が高い(上演回数が多い)ものは「勧進帳」「助六」「暫」の3作品です。
その他「外郎売り」「毛抜」「矢の根」「鳴神」は、今でも時々上演されます。
それ以外の演目は、今ではほとんど上演されていません。
というのも、7代目市川團十郎が十八番を定めた時点で、すでに内容がハッキリしていなかったそうです。
台本はおろか、一枚の木版役者絵しかないものもあったとか。
これらの演目も、明治から昭和にかけて当時の歌舞伎作者たちが大幅な創作を加えて復活上演されますが、大きな話題にはなったものの評価はイマイチでそれきりとなってしまったそうです。
では、人気の演目から簡単にあらすじをご紹介します。
「勧進帳(かんじんちょう)」
源義経と弁慶の話。
と言っても刀狩りの牛若丸と弁慶の話ではなくて、源頼朝が兄の源頼朝と不和となり、山伏(やまぶし)に変装して逃げる話です。
北陸道の関所である安宅(あたか)の関で、陸奥国(むつのくに)へ行こうとしている義経一行と、関守をするよう幕府に命じられた武士の富樫左衛門の押問答が繰り広げられます。
火事で焼けた東大寺の再建のため、地方から勧進(寄付)を募っていると言う弁慶に対し、富樫は「それなら勧進帳を読み上げろ」と命じ、書かれていない勧進帳を読み上げるというもの。
それでも疑いが晴れない富樫は、山伏の心得や装束など様々な質問をしますが、弁慶はことごとく答えてみせます。
それを聞いた富樫が感心し、袴や黄金を寄付として渡します。
しかし、去ろうとした義経一行に富樫の部下が「義経に似ている」と言われたため、その疑いを晴らすために弁慶が義経を杖でぶっ飛ばします。
家来として決してしてはいけない行動ですが、それでも義経を守ろうとする弁慶の姿に富樫は心を打たれて関所を通してあげるといった内容です。
弁慶の機転が凄い話ですが、女方が出てこない男たちのドラマとして見所満載です。
また、歌舞伎の様式美とも言える見得や飛び六方もたくさん見ることができます。
歌舞伎の演目の中でも1、2を争う人気作品です。
余談ですが、赤塚不二夫さんの葬式で弔辞を読み上げるタモリさんが持つ紙が白紙だったことから、「現代の勧進帳だ!」と話題になりました。
「助六(すけろく)」
歌舞伎の中で一番派手で華やかな演目かと思います。
正しくは「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」と言い、通称「助六」として親しまれてきました。
舞台は江戸の吉原。
三浦屋で1番の花魁、揚巻(あげまき)に熱をあげる意休(いきゅう)。
たくさんのおともを連れて毎日通い詰めますが、揚巻には恋仲の江戸一番の伊達男、花川戸助六(通称・助六)がいるため全く相手にされません。
かたや助六は江戸一番の伊達男。
奪われてしまった源氏の宝刀・友切丸(ともきりまる)を取り返すため、吉原に出入りし、喧嘩に明け暮れます。
喧嘩を売った相手が刀を抜くのを確認して、友切丸をさがしているのですが、意休が友切丸を持っていることを聞き出し、奪い返すという話です。
助六という役は、荒事と和事の両方の要素が備わっており、この演目の見所でもあります。
江戸の伊達男、市川團十郎のための演目といった感じです。
十一代目市川團十郎は「はなの海老さま」と言われるくらいの美貌で有名でしたが、十三代目もとても魅力的だと思います。
「暫(しばらく)」
舞台は鎌倉・鶴岡八幡宮で、清原武衡(きよはらのたけひら)が、加茂次郎義綱(かもじろうよしつな)の朝廷への奉納品に難癖をつけます。
清原武衡は、かねてから加茂家を良く思っておらず、加茂次郎義綱に「自分の家臣になれ」と無理難題を言い、うんと言わない義綱をとらえてしまいます。
そして部下の武士に打ち首を命令したところで、「しーばーらーくー!」という大きな掛け声とともに、ド派手な鎌倉権五郎景政(かまくらごんごろうかげまさ)が登場。
自分の背丈よりも大きな大太刀と、成田屋の家紋・三升が描かれた凧のような袖、ムカデのような髪型と、その姿は一度見たら忘れられません。
東京オリンピックの開会式で、ジャズピアノの合わせて十三代目市川團十郎が舞ったのは記憶に新しいと思います。
戦隊モノのヒーローよろしく、清原武衡率いる悪党をやっつけて、加茂次郎義綱たちを助け出すというわかりやすいストーリーです。
鎌倉権五郎の登場シーンの悪党とのやり取りや、見得、退場シーンなど面白い見所が満載の演目です。
普通に名作、人気の演目
上記3作ほどではありませんが、次の作品もよく上演されます。
「外郎売(ういろううり)」
外郎と聞くとお菓子が思い浮かびますが、ここでは「中国から伝わった万能薬」のことを言います。
小田原の透頂香(とうちんこう)という薬(外郎)を売り歩く商人がいました。
その正体は、曽我五郎時政。
父の仇を討つために、工藤佐衛門祐経(くどうさえもんすけつね)の命を狙っています。
工藤祐経は、富士の裾野で行われる巻狩りの総奉行として任命され、部下や遊女と宴を始めようとしていました。
そこへ外郎売の声が聞こえ、興味を持った工藤祐経が招き寄せます。
早口で有名だった外郎売に言い立てを聞かせて欲しいというリクエストに答えて、長台詞の言い立てをよどみなく語ります。
外郎が女性を口説くのにも効くという効能に興味を持った珍斎に、外郎を一粒飲ませて早口の言い立てを言わせますが、当然上手く言えません。
早く効くおまじないをかけようとして、そのまま工藤祐経につかみかかろうとしますが、女郎たちに止められてしまいます。
その時、曽我五郎時政の兄である曾我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)が駆けつけ、兄弟で工藤祐経に挑みますが多くの部下に守られた祐経には届きません。
悔しがる兄弟を見た祐経は、その心意気に打たれ、「総奉行の務めを終えたら潔く兄弟に討たれよう」と約束して幕となります。
代々市川家の跡継ぎの通過儀礼となってい流ような演目です。
1985年に十二代目市川團十郎と市川新之助(十一代目市川海老蔵・十三代目市川團十郎)が、2019年に十一代目市川海老蔵と勸玄くんが親子で演じています。
「毛抜(けぬき)」
「毛抜」は「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」の第三幕にあたる演目です。
舞台は小野小町の子孫にあたる小野春道(おののはるみち)の館。
小野家の家宝の「ことわりの短冊」を用いて、雨乞いの儀式をすることになったのですが、その短冊が盗まれてしまいます。
「ことわりやの短冊」とは、小野小町が書いた名歌
理(ことわり)や 日の本ならば照りもせめ さりとてはまた天が下とは
が書かれた短冊のことで、雨乞いの効力があるとされています。ぬすまれて
その短冊を巡って、責任を押し付けあっているさなかに文屋豊秀(ぶんやのとよひで)からの使者として文屋家の家老・粂寺弾正(くめでらだんじょう)が来てしまいます。
小野春道の娘である錦の前と婚約している文屋豊秀が、姫が病気という知らせのまま、話が進まないことを心配し、様子を探るよう言いつかってきたのです。
弾正は「姫に合わせて欲しいと」お願いし、薄衣を被った姫が姿を見せますが、髪の毛が逆立つという奇病にかかっていました。
短冊がなくなったり、姫が奇病にかかったりと忙しい内容ですが、弾正はそのどちらも解決してしまいます。
さらに、お家の乗っ取りを企てる家老の八剣玄蕃まで成敗してしまうという話です。
粂寺弾正は、かなりやり手の頼れる男に見えますが、身少年や美女を口説こうとしても相手にされなかったというなかなか憎めないヤツです。
愛嬌もたっぷりで、歌舞伎の中でもかなりユニークなキャラクターです。
「矢の根(やのね)」
「矢の根」は享保14(1729)年1月、江戸中村座で初演された「扇恵方曽我(すえひろえほうそが)」の一幕が基になっています。
のどかなお正月のある日、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討つため、曽我五郎時致は炬燵の櫓(やぐら)に腰をかけ、大きな矢の根(やじり)を砥石で研いでいました。
これがびっくりするくらいのデカさ!
「工藤祐経がどんなに威勢を振るっていても負ける気はしないが、しかし貧乏だ…。」と愚痴りながら、自分に福をもたらさない七福神の文句を言っています。
そこへ浄瑠璃の師匠である大薩摩主膳太夫(おおざつましゅぜんたゆう)が新年のあいさつにやって来ます。
文太夫が持参したのは、縁起物である宝船の絵。
これを見て五郎は喜び、「この絵の上に寝て、祐経の首を引っこ抜く初夢でも見よう」と矢の根を磨いていた砥石を枕がわりにして寝てしまいます。
すると、夢に兄の曽我十郎祐成が現れ「工藤祐経に捕らえられた!助けに来てくれ!」と言って消えてしまいます。
五郎は飛び起きて助けに行こうとしますが、貧乏なので馬がない。
しかしちょうど通りがかったお百姓さんの馬を奪い取り、ムチの代わりに大根で馬の尻を叩いて工藤祐経の屋敷へ駆けていくという話です。
「鳴神(なるかみ)」
高僧の鳴神上人(なるかみしょうにん)は、世継ぎゆのいない天皇に依頼され、子供の誕生に願をかけ、これを成就させます。
そのひきかえに戒壇(かいだん)の建設を朝廷にお願いしていましたが、約束を破られてしまいます。
これに怒った鳴上上人が呪術で滝壺に雨を降らせる龍神を封印し、国が干上がってしまいます。
そこで朝廷は色仕掛けで呪術を解こうと、絶世の美女・雲の絶間姫(くものたえまひめ)を上人に近づけさせます。
上人も色仕掛けには抗えず、酒に酔い潰れてしまい、その間に封印を解かれてしまいます。
雨の音で起きた上人は、騙されたことに気がつき、怒り狂って雷になって姫を追ってくるという話です。
前半の濡事(ぬめごと)と後半の荒事の対比が見所の一つです。
もともと「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」という演目に含まれていたものです。
「嫐(うわなり)」
1699年(元禄【げんろく】12年)に初代市川團十郎と、当時まだ幼かった二代目市川團十郎が初演したのが始まりです。
この演目は、長い間上演されず脚本が伝わっていません。
また、この演目は上演すると良くないことが起きる縁起が悪い演目と言われ、あまり上演されなくなった経緯があります。
昭和11年と昭和61年に復活上演されていますが、いずれも錦絵をヒントにした創作だったそうです。
近年は十一代目市川海老蔵が2015年のシンガポール公演で復活させました。
内容を簡単に言うと、本妻が亡くなった後、夫が妾といるところを亡き妻の亡霊が娘に取り憑いて二人を嫉妬で苦しめるといった話です。
女二人が男一人を取り合って、古くからいた方が強い嫉妬を持つといったものです。
「不破」(ふわ)
ふわ伴左衛門(ふわばんざえもん)と名古屋山三(なごやさんざ)の二人の主人公が、一人の遊女を巡って争うという話です。
すれ違いざまに刀の鞘(さや)が当たったということで起きる騒動で、「鞘当(さやあて)」という演目で演じられる芝居も同じ内容です。
しかし、「鞘当」は歌舞伎役者・鶴屋南北による「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」の一場面であり、これは歌舞伎十八番の「不破」とされていません。
「景清(かげきよ)」
「牢破りの景清」とも呼ばれ、景清が牢を破るという荒事芸を見せる話です。
平家が滅びた後、鎌倉問注所にある土牢に捕らえられた悪七兵衛景清を源氏の味方につけようとしますが、最終的に景清を怒らせてしまい、牢を破られてしまうという演目です。
景清というキャラクターは色々な作品に登場し、その作品は「景清物」と呼ばれます。
歌舞伎十八番の中でも「景清」「関羽」「解脱」「鎌髭」と4つもあります。
その他の歌舞伎十八番の演目
前述したように、歌舞伎十八番の中には、ちゃんとした台本が残っていないものや、一つの演目ではなく他の演目の中で演じられるものもあります。
以下の作品は、最近ではほとんど上演されないものもあり、見れたら超ラッキーです。
「不動(ふどう)」
二代目市川海老蔵(二代目市川團十郎)が「雷神不動北山桜」の五幕目大切りに取り入れたものです。
ちなみに『雷神不動北山桜』の三幕目は「毛抜」、四幕目は「鳴神」です。
「象引(ぞうひき)」
叛臣蘇我入鹿が連れてきた象を、藤原鎌足の家来山上源内左衛門が入鹿と引きあうという話です。
象はもともと日本にはいない動物ですが、古くは菩薩の乗り物とされ、室町時代の頃から生きた象がしばしば来日し、とても珍しがられたそうです。
江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎の舞台でも象について何度か取り上げられています。
その物珍しい象に「物を引き合う」と言う歌舞伎の荒事を取り入れています。
しかし、江戸時代に上演した記録が残っていません。
近年では、2009年に十二代目團十郎が上演しました。
「押戻(おしもどし)」
不動と同じように話の型のひとつであり、荒事芸のひとつです。
型にもよりますが、現在では「鳴神」や「娘道成寺」の最後に「押戻」が登場します。
主人公が大きな青竹を持って登場し、悪霊や怨霊が花道にこようとするのを本舞台(舞台中央)へ「押し戻す」といった話です。
押戻単独の演目としては、1934年に五代目市川三升が復活上演(岡鬼太郎脚本)で上演されました。
「関羽(かんう)」
正式な名前は『閏月仁景清』(うるうづき ににん かげきよ)と言い、二代目市川團十郎によって初演されました。
皇位をねらう三河守範頼をとどめるため、平景清が張飛に扮して範頼の館へ忍びこみ、関羽に扮した畠山重忠とともに荒事芸を見せる話です。
長い間上演が途絶えていたため、細部はわかっていません。
しかし近年では二代目市川左團次が大正に、昭和60年(1985年)に二代目尾上松緑が復活上演しました。
「七つ面(ななつめん)」
この話は、台本が残っていないので詳細は不明です。
舞台に五つの箱が並べてあり、その面を使って人物を演じ分けるといった話です。
五つの面は作られた物ではなく、海老蔵自身が表情を変えたりカツラやツノをつけて演じ分けていたそうです。
面が「尉」「塩吹」「般若」「姥」「武悪」の「五つ」しか出てこないのですが、なぜか「七つ面」という謎が多い演目です。
「解脱(げだつ)」
1915年(大正4年)に2代目市川左團次が復活上演。
最近では、12代目團十郎が1992年(平成4年)に演じました。
娘姿で登場した景清の怨念を見せた後、次第に亡霊の本性を表すという内容です。
「蛇柳(じゃやなぎ)」
丹波の助太郎という馬鹿大当たり(ろくでなし)に、おきよという失恋の末に殺された娘の霊が取り憑いて、嫉妬事を見せる演目です。
2013年(平成25年)8月に十一代目市川海老蔵が復活上演しました。
「鎌髭(かまひげ)」
鍛冶屋四郎兵衛に扮した三保谷四郎が、景清の首を鎌で切ろうとしますが、景清は不死身で切れないと言う不思議な内容の演目です。
近年、十一代目市川海老蔵によって復活上演されています。
まとめ
いかがだったでしょうか?
歌舞伎十八番の演目って、ほとんど知らないんじゃなかったかと思います。
十八演目もありますが、意外と上演されていない演目もあり、中には内容がわからないものもあるとは驚きですよね。
市川團十郎家のお家芸として、歌舞伎界になくてはならないものです。
大人の嗜みとして知っていると、きっと良いことがあるかもしれません。
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